Australia-Japan Research Project

オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト
戦争の人間像
ラエ・サラマウア

 連合軍のサラモアとラエに対する進撃は慎重に開始された。ニューギニア・フォースの新しい司令官となったイヴァン・マッカイ陸軍少将は、日本軍がワウを奪取する計画を放棄したという事を確信してはいなかった。しかしながら、1943年3月2日から3日にかけて、連合軍の航空機が日本陸軍第十八軍を乗せた輸送船団を海上で迎撃し、これに決定的な打撃を与えた。

 このビスマルク海海戦は、この海上及び航空作戦における転換点となった。出だしにおける一連の失敗を重ねた後、連合軍の航空兵らは対艦攻撃法を変えていった。アメリカ軍のミッチェルB-25爆撃機が輸送船に対して『スキップ・ボミング(反跳爆撃)』を実施している間、それら爆撃機に対する対空砲火を沈黙させるため、オーストラリア軍ビューファイター戦闘攻撃機が護衛する軍艦を機銃掃射した。全輸送船と三隻の駆逐艦が撃沈され、他の駆逐艦五隻が損害を受けた。乗船していた六千五百名のうち、少なくとも二千八百九十名が戦死もしくは溺死し、続く数日の内に漂流中の海上または救命ボート上で多くが機銃掃射された。生存者は武器や装備を失ったままバラバラのグループで海岸に漂着するか、または救助されてラバウルに帰還した。

4月23日、ニューギニア・フォースはワウを防衛していたカンガ・フォースを解散し、新たに第3師団を召集した。同師団は、ポートモレスビーから空輸されてきた戦闘経験のない第15旅団に加え、歴戦の第17旅団と二個独立中隊を含んでいた。カンガ・フォースの元隊員らは引き揚げた。

第17旅団は、後退する岡部支隊を追跡し、その月の終わりまでには海岸線まで三分の二の行程にあるラバビア尾根(Lababia Ridge)を奪取した。一方で第2/3独立中隊は、日本軍の通信路であるコミアタム街道付近の陣地を占領していた。別働配備されていた民兵第24大隊は、マーカム川沿いの拠点を占領したが、本格的な抵抗には遭遇しなかった。

密林に覆われた山間部の移動は、緩慢で退屈なものであった。道は狭くてぬかるみ、時にひどい勾配となっていた。将兵と運搬人らは傾斜を必死になって登り、別の迫りくる激しい勾配に向かうために、またその反対側を伝い降りた。衝突はいつも稜線で発生し、しばしば日本軍は病気か疲労困憊した将兵を残して、自滅的抵抗を行わせた。戦闘はそれゆえに、両軍にとって激しく、また損害の多いものとなった。

アメリカ軍の輸送機は、ワウにオーストラリア兵と装備及び貯蔵品を輸送し、前線地域には糧食と他の補給物資を投下した。悪天候はしばしばその飛行を妨害し、それゆえに補給は引き伸ばされた。ニューギニア人がオーストラリア軍への物資を運び、歩行不能の負傷兵らを搬出したが、オーストラリア・ニューギニア行政府(ANGAU)はパプア人が領土境界線を越えることを認めず、輸送線を強化した。しかしながら、何百ものパプア人男女が、ブルドックからオーエン・スタンレー山脈を越えてワウに至る道路を建設していた工兵やニューギニア人とともに働いていた。

日本軍占領下にいた住民らは、運搬作業を避けるため、または連合軍の航空機によって家を掃射されたために逃げ出していた。掃射は通常、村から村人を立ち退かせるために、警告を行った後に行われた。この戦術は、オーストラリア統治に対する忠誠を維持しているニューギニア人の労働力を日本軍に使わせないために考えられたものであった。

日本軍工兵と朝鮮人労務者が物資を運んだが、その場所は標高三千フィートで剥き出しの傾斜地をもち、海岸線を見下ろすようにそびえ立った地形のコミアタム・ヒル(Komiatum Hill)であり、彼らが骨を折ったのは運搬作業そのものだけではなく、航空攻撃を避けるために作業自体が夜間に限られていた事だった。前方地域では、飢えた兵らが農園を襲ったり、または「嫌いでも食べるしかなかった」『ムボ芋』を煮たりしていた。

第十八軍司令官安達二十三陸軍中将は、歩兵第六十六連隊に対し、フィンシュハーヘンから進軍し、オーストラリア軍の進撃を食い止める事を命じた。しかし、彼らのラバビア尾根における反撃は失敗に帰した。第17及び第15旅団は進撃を続けた。6月29日から30日にかけて、アメリカ陸軍第126連隊がナッソウ湾に上陸してオーストラリア軍と合流、同湾を守備していた岡部支隊の第三大隊は後退した。ナッソウ湾の占領は、オーストラリア軍に対する新たな補給路を開く事となり、また予定されていたラエ襲撃に参加する上陸用舟艇の燃料補給を可能にした。

ラエへの攻撃は、サラモアへの進撃と合同で行われた。パプアで戦った第7師団が陸路進撃する一方で、少し前に北アフリカ戦線から帰還したオーストラリア陸軍第9師団が上陸作戦を実施した。当初の計画では、第7師団がワウまでの道路を移動してマーカム渓谷へ進むはずであったが、ブルドック道を作戦開始までに完成させる事が出来なかった。マーカム渓谷まで半分の行程にあるツィリツィリの飛行場は使用可能であり、8月には第5空軍が最大規模の兵員、装備及び補給物資の空輸をそれまでに実施した。

連合軍はラエにおける日本側の強力な抵抗戦を予想していたが、アメリカ陸軍第504落下傘連隊と第2/4野戦連隊の砲手が、最初の目標であるナドザブに降下した際、彼らは一切の抵抗にも遭遇する事はなかった。事実、安達中将は、濃い密林が部隊の隊列を隠すであろうフェニストル山脈を越える守備隊の撤収を許可していた。

第9師団は9月4日にラエ北方に上陸した。彼らはアメリカ軍第7水陸両用軍団の上陸用舟艇と揚陸艇によって輸送され、補給を受けていた。アメリカ軍戦闘機が「上空直掩」を行い、初日には約九機の日本軍機がやってきただけだった。主な問題は、水かさの増したブス川(Busu River)を渡河する事であった。9月9日、ある大隊が十三名の溺死者を出しながらも橋頭堡を設置したが、この上や他の河川を渡って火砲や補給物資を輸送するのは困難であった。そのため、前進は遅々としたものであった。

第7師団はマーカム渓谷まで進撃していた。師団の目標は、日本軍守備隊を撃破するというよりはむしろラエを攻略する事にあり、それゆえに日本軍の脱出路は塞がれてはいなかった。ラエ基地は9月16日に陥落し、サラモアはそれより五日早く陥落していた。

退却する日本軍は、そこからニューギニアで最も峻険な山岳地帯である、標高一万フィートに達するサルウェイジド山脈(Saruwaged Range)などを越えて、二百五十マイルもの道程を踏破しなければならないと予想されていた。ニューギニア人がある程度の補給物資を運んだが、将兵らは彼ら自身の装備と糧食を運んでいた。重傷病兵らがこの退却についていけないのは明白であった。潜水艦によって脱出した者もいたが、野戦病院に入院していたほとんどの将兵らは自決するか、もしくは医官らによって殺害された。

海軍将兵及び基地要員は比較的健康であり、十五日分の糧食を運んでいたが、戦闘に疲弊した後方の歩兵らは、僅かに一週間分の糧食しか運べなかった。道は険しいばかりではなく、湿っていて冷たく、それは特に将兵らが夜間天幕なしで、またしばしば焚火なしで野営する時に顕著であった。退却の半ばで糧食が底を突いた時、将兵らは農園に侵入し、食用可能な密林の植物や昆虫、カタツムリなどを探し回った。後方の兵らには、それらが全て奪い尽くされた土地しか残されていなかった。彼らは食料不足で弱り、多くの者がマラリアやその他の病気を再発させていた。およそ十人中四人が病気や飢餓、疲労などで死亡し、同僚に殺害された者もいた。後方における死亡率は最も高く、そうして日本軍は自らの最精鋭の将兵らを失い続けたのであった。

ジョン·モーマン記 (丸谷元訳)


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